「だから言っただろ。うつるって」

    水気を絞ったタオルが額へとのせられる。慣れた手つきはべたべたと無遠慮なほど。
    過ぎた心配からくる腫れものに障るような妙な距離も、倦厭する相手に対するよそよそしさもまるでない、その行為。
    あっさりと触れて、たやすく離れていく距離に骸は熱からでなく顔をしかめた。

    “うつる”。
    その綱吉の言葉から掘り起こされた記憶はほんの二・三日前のこと。
    効率が悪いくせに多量の仕事を抱え、鈍臭いくせにすべてに手をのばす、間抜けな目の前の相手が風邪をひいた日のできごとだ。
    凪から綱吉が寝込んだことを伝えきいた骸はおおよその病人が苦しむという夜半に彼を訪れ、
    案の定、高熱、咳、その他もろもろにより息も絶え絶えな姿を見下ろしていた。
    彼が横たわるベッドの隣、労せず殺せてしまいそうなほど近くで。
    ぜい、ぜい、と掠れる吐息はそれだけで身の内にため込んだ熱を現していて、溶け出してしまいそうなまぶたは固く閉ざされている。
    部屋の窓をたたく、猫目月の光と同じにひどく弱弱しい姿。
    正直、その時なにを思って綱吉を訪れたか、よく覚えていない。
    己にありがちな気まぐれか、あわよくば念願たる彼の身体を奪うためか。
    おぼろげなきっかけよりも刻まれているのは目にした途端、潮が引くように静へ傾いていく感覚。
    夜の海のよう。塗りつぶされる心地。
    徐々に波すら立たず無音へと落ちていくかのような、訳の分からぬ衝動を
    けれど、生じさせた綱吉こそがかき消した。
    薄茶の瞳を開き、嗄れた声を紡いで。
    ―――ここにいたら、うつるぞ。と、何でもないように傍らにたつ骸を受け止めた。



    「…………あの時ほど興ざめに思うことはないと、思ってたんですけどねえ…」

    吐きだした骸の息は記憶の映像と同様。蒸される熱さが至極、うっとうしい。

    「興ざめって……お前、病人相手になに楽しむつもりだったんだよ」
    「貶す、嘲笑う、見下す、ってところでしょうか」
    「……見下ろしてはいたよ、お前」
    「実際の立ち位置ではなく、心的な意味合いで、ですよ」
    「風邪ひいてるときぐらい大人しくしろよ、お前の口の悪さもさあ…」

    ショリショリと音を立て出したのを横目に見れば、丸いリンゴから赤が削り取られていく動作。
    いつからこんなに器用になったのか。
    まさか暇を極みに看病の仕方までも教育したのかとアルコバレーノを思い浮かべる。
    と、いつまでも小さなその姿に連想されるよういくつかの存在が並び立って。

    「……雷…」
    「ん?  ああ、うん、そう。ランボのお陰でオレもリンゴなんて剥けちゃうようになったんだよなぁ」

    はい。行って渡されるのは無駄にかわいらしいウサギ型の果実。
    このどこまでも童顔なボンゴレ10代目は骸をどう認識しているのか。
    不愉快さをそのままに噛み砕けば、じわりと甘みが広がった。



    大空が風邪に身動きできなくなったその日。骸はそれこそ暇を極みに彼を訪れて。
    その目で、耳で、手で、彼を確かめた。
    触れた額の熱は奇妙に残り、今でも思い出すことができるほど骸へと印象づいた。
    だが、こうして骸こそが風邪に伏してみて、とった行動といえば
    凪にも誰にも悟られぬようひそりと一人閉じこもることで。
    見られるのも、看られるのも心底から勘弁だと思っていたのに。
    無駄に感度のよい大空はあっさりと霧を見つけ出す。
    まるで綱吉の後を追う、嵐のよう。
    飼い主が犬に似たか、なんて下らないことを考えている端、
    思考を通さぬ唇がかってに問いを紡ぐ。

    「この甘さは、どこからくるのか」

    理解できない。声音も表情も、すべてがそう語っていたのだろう。
    一欠けらかじっていた綱吉は大きく瞬いた後、口内のリンゴをしゃくしゃくと嚥下していく。
    そうして話す体制を整えて。近く座っていた椅子からもっと近くへ、身をかがめてきた。

    「あのなあ、オレは聖人じゃないの。そんなの骸が特別だからに決まってるだろ」

    甘くもなんともない。気にも留めない相手に対して看病などするはずもないのだ。不器用な自分が。
    さらりと答えた綱吉は、本当に何でもないことのように続きのリンゴを剥き直す。
    ショリショリとよどみない、音の再開。

    「………ちなみに他の守護者が倒れた場合は?」
    「度合にもよるけど、まあ看病にいくだろうね」
    「……相変わらず無節操ですね、君って人は」
    「人聞きの悪いこというな。ファミリー思いって言え」
    「押しつけがましいのは嫌いですよ」
    「あー、はいはい。大丈夫だって、ギブアンドテイクだから」

    言う間にもう一つ、リンゴを押しつけられる。

    「お前もけっこう優しかったから、お相子だろ」

    その、
    脳が腐ったかのごとき発言は沈黙に伏して。
    くどいほど徹底したウサギの耳をむしり取ってやった。



                                                                                                                                                      09.02.03UP