沢田綱吉という人が不器用ながらも精一杯に注意を向ける対象は、そう多くはない。
彼のうんと伸ばした両手に収まりきる、彼の大事な大事なファミリーと、
そして様々な形に触れ合う人々に対してだけだ。
時にそれは『敵』なんて、ひどく物騒な形をとるけれども。
けれども、やっぱり五感(…もしくは六感まで加えて)いっぱいに張り巡らされたそのセンサーは
彼の身近なひとに向けられる時が、一等、感度が良くなる。
「獄寺君」
同盟ファミリーだけでなく、壁をいくつも隔てた向こうで隙なくこちらを窺っているような、多少油断のならない人々をも交えた会合ののち。
ようやっと一心地をつけて、ようやっと安心できる仲間だけになった、その時。綱吉は彼を呼んだ。
二メートルほどの距離を開けていた獄寺は資料をまとめていた手を止めて明瞭な返事の後、すぐさま隣へと歩みよってくる。
その、淀みない、洗礼された所作。
相変わらず無駄に格好が良い。
腕を伸ばしきるまでもなく届く距離にたどり着き、
そう、がしりと音を立てて綱吉は獄寺のセンス良いスーツの袖を握る。
「…10代目?」
「獄寺君、きみってやつは…!」
「あ、あの、何か、お気に障ることが…っ!」
みなまで言わせず。有無も言わさぬままに、ずるずると一回りはでかい図体を引きずっていく。
全く、憎らしいほど大きくなってくれやがったこの男は優秀なその頭脳をいつだって妙な具合に働かせるのだ。
お気に障ること、だって?そんなの当然気に障っているに決まっている。
あの、その、すみません、ごめんなさい、10代目っ!なんて、後ろから追いかける情けない声を顧みずもせず。
綱吉はボンゴレで手配したホテルの一室、一晩を過ごす己の部屋の扉を開け放つその時まで一度も獄寺を振り返らなかった。
かちり、と錠を落として。先にソファへと座らせた―――くせに勝手に立ち上がっている獄寺へとようやく瞳を合わす。
灰緑の双眸が頼りなく揺れていた。
それに我慢できずに、ぱしりと形のよい彼の額を平手で叩いてしまった。
「っ、じゅ、じゅうだい、め…?」
「ばか」
「え」
「馬鹿でしょ、きみ!こんなに疲れてるくせになに平気な顔で笑ってるんだよ!」
ぐりぐり、と。叩いた手を滑らせて、乱暴に銀糸をかき混ぜる。片手じゃ足りなくなって、宙ぶらりんだった左手も伸ばしてしまった。
柔らかな感触にみるみると獄寺の瞳が開かれていく。開けば開くだけ彼の瞳の緑が濃くなるって、獄寺自身は知っているだろうか。
その、純粋な色。
「10代目…」
「なに」
「10代目、その、どうして」
「どうしてって今それを訊く?まあいいけどさ。あのねえ、きみ、疲れてると伏し目がちになるんだよ。
眠いのか、光がまぶしいのか、そんな風に。なのに、絶対目を閉じることはない」
暗闇こそを警戒する野生動物みたいに。ぴん、と硬質な空気を纏う。
まるで倒れないよう、己に言い聞かせているかのごとく。
その姿は綱吉の感覚を大きく揺さぶるから。
「だから、さ。ねえ、いい加減ちょっとは休んでもいいんじゃないかな?」
さらり、と。力を緩めて包むよう、獄寺の両耳の上に手をそえる。そしてくっつけるほどに顔を近づけた。
「獄寺君」
呼べば、一枚一枚、獄寺を纏う空気が剥がれ落ちていく。
きっと彼自身も気づいていなかっただろう疲労がやっと、姿を現してきた。
「………10代目には、敵わないッスね」
距離をゼロに。綱吉の肩へとのせられた頭を一撫でして、広い背へと両手を回した。
なだめるように。甘えるように。
「10代目」
「ねえ、獄寺君」
「はい」
「さっきの続き。もうひとつ、あるんだ」
きみの合図。
疲れたときや気持ちが参っているときの、獄寺のサイン。
「10代目、って。くり返し呼ぶんだよ、きみ」
「…………まるでガキっスね」
心なし増した肩の重さに、声に出して笑う。情けない、なんてそんなの今更だ。
「オレもきみをいっぱい呼んでるんだから、お互い様でしょ」
格好の良いだけの付き合いなんてあるはずもない。
まるごとそのまま、『獄寺隼人』を見つめて、求めているのだから。
情けなさを隠されるほうがどうしていいか分からない。
だから、お互い様が上等。
「獄寺君」
「…10代目」
「しっかり眠って気持ちよく起きれたら、さ。獄寺君、美味しいものでも食べにいこうよ」
「こっからなら、良い、ランチを食える店、知ってます。10代目」
「うん、じゃあ、そこで決まりってことで。獄寺君、今日のとこは大人しくベッドに収まろうか」
「はい。……10代目…」
「うん、遠慮はなしだよ、獄寺君。
いっしょにいるから」
握られた指に思いを返して。たまには二人、手をつないで眠るのもいい。
疲れたならばそう言って。気持ちが折れそうになったらその背を押してでも支えるから。
だから、ためらわず、名を呼べばいい。
09.01.23UP